イリーゼ八千代村上の周辺スポット2
@八千代村上 2017年06月08日


 

 

皆様こんにちは、イリーゼ八千代村上です。桜の季節も終わり、梅雨の気配も感じる昨今です。寒暖の差も大きいものとなりますので、どうぞ皆様もご自愛くださいませ。さて、今月は以前にも一度ご紹介させていただきましたイリーゼ八千代村上周辺スポットのご紹介、第2弾をお送りしたいと思います。

 

◆周辺スポット第1弾のバックナンバーはこちら◆
http://www.irs.jp/blog/?p=30268

 

 

前回は、イリーゼ八千代村上の坂上にあります「根上神社古墳」をご紹介させて頂きました。今回は根上神社古墳とは反対に坂を下ると見えてくる「新川」とその歴史についてご紹介をさせていただきたいと思います。

 

 

新川は近隣の方々の憩いの場として、公園や運動場、釣りのスポットとしても親しまれている川ですが、かつては今とは比べ物にならない細い川であったそうです。上流にある印旛沼が時折氾濫を起こすため、印旛沼放水路として開拓された経緯があり、この工事には大変な苦労があったといいます。最初は18世紀はじめ、八千代市平戸に住む染谷源右衛門(そめやげんえもん)という人が、水路開拓を当時の江戸幕府に申請し着工しますが、思うように工事は進まず途中で破産し失敗。2回目は1782年、老中・田沼意次が工事を再開するものの田沼の失脚により頓挫。3回目は1842年、やはり老中であった水野忠邦により工事が再開されました。この時には、計画にかの有名な二宮尊徳(金次郎)なども関わり、6万人の人員や庄内藩など他藩から集められた作業員の犠牲などを経つつも施工されたものの、水野の失脚により失敗。新川が現在の完成形になるには、戦後、昭和44年の竣工を待たねばなりませんでした。

 

しかし、最初に開拓に着手した染谷源右衛門の功績は平成となった今でも、地元の皆様に称えられ続けています。源右衛門や開拓に関わった方々の遺徳を偲び、新川に程近い八千代市運動公園広場では毎年「源右衛門祭」が開催されているとのこと。

 

さてイリーゼ八千代村上の周辺スポット…というよりは郷土史コーナーになってきて来ている感が否めませんが、ここまでやったのですからもう近隣だけでなく、イリーゼ八千代村上のある「まさにこの場所!」がどんな所だったのかも気になります。

 

早速調べてみますと、インターネット上のサイトで迅速測図という、明治初期~中期の全国921枚に渡る地図が公開されている事がわかりました。

 

 

八千代村上近辺の地図もありましたのでどんな所だったのか調べてみます。(右図参照)新川はすぐに見つけることができましたが、まだ開拓工事が完了していない時代ですので、まだ小川のような扱いです。新川に架かる村上橋もまだ存在せず、北へ向かって「至米本村」の表記が見えます。国道16号線に当たる大きな道もまだなく、右上には「畑」の文字が見えます。施設近辺に目を向けると現在同様に高低差が多く見られ、今でも坂が多い土地ですが、明治時代から大きく変化していない事が分かります。周辺に見える白い四角は民家を表しており、大きな施設などこそないものの、対岸の萱田地区も含めて人口の多い賑やかな地域であったようです。上記までの記事は、イリーゼ八千代村上館内に掲示されております「不定期刊・イリーゼ八千代村上新聞」でもご覧になれます。不定期刊のため、いつ刊行できるかのお約束はできないのですが、少しでも皆様に毎日の生活を楽しんで頂けるよう鋭意努力中です。

 

 

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